2014年8月28日木曜日

サプライチェーンマネージメントと社員教育~学習

今回は、ロジスティックスと教育の相関テーマで書いてみます。

サプライチェーンマネジメントとは一言で言うと、企業価値を高める事を大きな目的として製品の企画から調達、製造、販売、メンテナンス(回収)までを一つのシステムとして捉え最適になるように投資、運用していく考え方、と言えます。

物流という側面だけを見ると、物を運び保管する、という部分しか見えないので、配送費、保管費の低減や間違いを減らすマネジメントに躍起になります。しかし本来の全体システムという視点からすると過剰在庫によるキャッシュフローの停滞や欠品による機会ロスという視点があり、直接的な物流費用(配送や保管)よりも、大きな金額のロスとなっている可能性があるということです。

製品ライフサイクルというのがあって、市場で「価値が保てる期間」という意味なのですが、デジカメだとだいたい3ヶ月ぐらいのサイクルなので3ヶ月経つと次のモデルに変わります。そのような短い製品ライフサイクルの製品を日本からヨーロッパに向けて運ぶ最適解をどのように考えるのか?

船だと輸送そのものにおおよそ1ヶ月ほどかかります。港に到着してから物流センターに納めヨーロッパ域内に配送、店頭に並ぶ時間を考えると1ヶ月半。製品ライフサイクル3ヶ月なのに輸送で1月半も占めてしまいます。だったら飛行機にしたほうが良いという判断もできますが飛行機の輸送費は船と比べると非常に割高になってしまいます。

一部を船便、需要に応じて飛行機を使い、物流センターの場所をヨーロッパ域内で最適配置する。製品の企画段階から需要予測だけでなくこういったロジスティクスのタイムラインを考慮して、生産計画を立てる。例えばデジカメの外装の色で売れ行きが違うなら、場合によっては主要部品を運んでおきヨーロッパ域内で最終アセンブルするという発想もある。

サプライ・チェーン・マネジメントという全体システムの視点で見るには物理的な物流の費用に加えて、在庫や機会ロスという見えない部分も組み入れて考える必要があるということです。

さて本題です。

サプライ・チェーン・マネジメントを掘り下げて考えていく事は、組織のパフォーマンスを上げるという観点に置き換えれば私が今ディープルート社で取り組んでいる教育に非常に連携します。


サプライ・チェーン・マネジメントがどう関係するか?

組織が成果を上げるには組織を構成する各個人の学習がキーだと考えています。個人の学習があって次に組織の学習が起こり、成果を上げるアクションを生み出す。この学習がチェーン化している必要があるという考え方です。ラーニング・チェーン・マネジメントです。

例えば、企業研修を例に挙げます。
大手の研修会社や個人の研修講師まで様々なプログラムがあります。個々の研修が本当に効果を上げるのか?という検証は常にされています。それは本当に効果を生んでいるのか?という問いです。
外部流出するコストだけで、費用対効果を評価している企業は多いのではないでしょうか。

組織を全体システムとした場合、外部の研修だけでなく内部の教育にも目に見えないコストは掛かっています。同じコストを掛けるなら、本当に効果が期待できるように教育を改善する必要があると考えています。

教育から学習へ。私は個々の人の学習を促進し、組織への学習へと促進するラーニングチェーンを目指しているのです。研修など個々のアクティビティの品質を上げることも重要ですが、全体としての時間軸、空間軸から最適な学習チェーンを構築することも重要だと私は考えています。

私は、個々のアクティビティにも関わりたい気持ちもありつつ全体としての学習システムを目指します。

物流は現場の人の気持ちを積み重ね、一挙手一投足を積み重ね、巨大なシステムを構築していく一方で全体の大きなシステムから個々の仕組みの連携を配置していきます。

学習も同じく、現場の気持ちを積み重ね組織に繋げてゆくことと、一方で全体に最適な学習システムをマクロ的に構築していきたいと思っています。

最近思うのは、私はミクロもマクロも単体ではそれほど得意ではありません。おもしろネタは豊富ですがマーケティング講師の力量はある意味平均点以下です。

戦略コンサルティングについても私より優れた人は他にいくらでもいます。



しかし、ミクロとマクロを同時に見ながら実践指導を行い、

マネジメントで関わりながら現場を感じ取る、現場で関わりながらマネジメントを感じ取る、そして清濁併せ呑みこんで、一緒にベストプラクティスに向けて、仕組みを創りだすことが最強組織の基盤づくりには欠かせないのかなと。


一見、あまり関連づかない教育、学習とサプライ・チェーン・マネジメントというテーマですが、駆け出しの頃に勉強したサプライチェーンマネージメントをこの年になり、改めて俯瞰で考え直すと新たな発見がありました。




2013年7月30日火曜日

⑤ダイアログと学習:「人間の学習は、物語と共にある」


人間の意識や学習は物語という概念が基本になっていると思います。
私なりの定義では物語というのは体験や感情の動きを固まりとして認識する事だと考えています。

1)人間と物語の関係

人類が道具を使い文明を築いてきたのは、言い換えると「物語」という認識方法を習得してきた歴史なのではないかと思います。

物語は人間が意識の世界をどう受け入れて、どう表現するかという根幹の仕組みであると私は考えています。

例えば、神話や民話などは古くから伝わる物語であり、世界中のお祭りもほとんどの場合、物語を象徴するもの、とされていると私は考えています。また宗教においても原始的なものでも近代的なものであっても、物語が、そこにはあると思います。

音楽なども「物語としての認識」がベースになっていると思います。音楽は人の声やモノの音を時間の流れとして表現していますよね。最初は「アー」とか「ウー」とか唸り声だったものが、洗練されメロディーを奏で始め、言葉を乗せていったのでしょう。時間の流れ(期間)と共に変化する音の表現、まさに物語なのではないでしょうか。私の勝手な仮説ですが、物語を認識したから時間の概念が生まれたのかもしれません。

人類が慣れ親しんできた考え方やコミュニケーションの概念は物語が基本となっていると思います。
逆に言えば、進化の過程において「物語というフレーム」が人間の学習を促進した、という考え方はどうでしょうか。人類は物語によって学習してきたということです。

象徴的な例を挙げます。
ミクロネシア連邦のヤップ島にある石貨は、石のお金、貨幣です。しかし現代の私たちが考えるような流通する貨幣ではないのです。この石貨は、遠くパラオの石を切り出し、アウトリガーカヌーによってヤップ島まで海上輸送されたものです。この石貨は結婚の贈り物とされるなど、儀礼的な意味で使われます。使われると行っても物理的な流通はありません。その場所に置かれたまま、所有権が代わっていきます。

この石貨の価値は、物語です。先にも書いた結婚など儀礼的な意味と、同時に石貨の価値には、その石貨がどうやって運ばれてきたのか、航海の時の苦労、誰が命を落としたか、という物語までも含まれています。現在でもヤップには石貨がたくさんあるのですがその大半は外国人が蒸気船で運んできたもので、現地の人に言わせるとほぼ価値の無い石貨だそうです。運んできた物語に価値があり、物理的な石貨に価値が有るわけではない。

更にはアウトリガーカヌーの建造方法、パラオまでの航海方法や海図など、書いた言葉がないので口伝による物語としてすべて口伝されていくのです。そうやって現代の航海の通信コンピュータ技術に匹敵するぐらい高度な航海術によって石貨の輸送が行われていたのです。

このように、物語として人間の知恵が継承され、実は現代から見ても非常に高度な技術を持っていた民族もいたのです。

2)人間の成長は物語の成長でもある

命を授かり、母親の胎内で成長する胎児は、徐々に母親や外界とのコミュニケーションを学習していきます。数ヶ月経つとすでに胎児は音や温度によって反応しているそうです。

生まれた後、ものすごい速度で、外界に影響を受けながら学習をしていきます。音や母親の声や身体感覚とふれあい、自己を認識していきます。

生まれてから幼児期までの躾において、この時期は人間としての学習能力の習得期間として非常に重要な時期だと言われています。それは何故か?

対話型学習の習得期間でもあるからです。対話とは、自分の中にある物語と、外(未知)の物語との出会いなのです。実はこの幼い時期はどれだけ数多く新しい物語と出会えるかが、大人になってからの学習の質に大きく影響する学説もあります。

絵本の「読み聞かせ」が最近流行っていますが、これは自分の中で物語を熟成する学習であり、非常に重要であると言われています。物語を母親の声で体験し、自分の物語と照らし合わせ、組み合わせていく中で疑問が生まれ、感情が溢れてくるのです。疑問が生まれると言葉を使える場合は「どうして?」と母親に聞きますし、自分の中で対話型に考えていくことも行います。感情が溢れると自分の物語が、より強固に記憶されていきます。

このように人間の成長は、物語をどう認識して、どう表現するかという対話型学習が重要な要素なのです。ある意味人類の学習の歴史を再体験しているように思えますね。

3)物語は多くの人によって共有される

物語は、人づてに伝わっていきます。言葉もそうですが気持ちや雰囲気も伝わっていきます。

物語がどのように伝わるか。

1)誰もが自己の中に、物語を持っており、物語を言語や身体で表す。
2)人が人の物語を受け入れ、相手の物語を自己の中で想像したり、お互いに自己の物語と統合していくこと。
3)その過程で人は感情をイメージ化して物語の融合や統合しながら記憶していく。

このように物語をお互いに共有したり交換していくことで、創発的な意識の変容が行われてきたのではないかと思います。

気持ちや雰囲気が伝わる、というのは「感情をイメージ化する」という認識です。つまり「今、自分が持っている感情は、相手のものなのか、それとも自分のものなのか、がわかならくて、ひょっとすると一緒かもしれない」という感覚を生み出すと思います。

物語は、感情をイメージ化し共有感覚を生み出します。多数の物語を共有すればするほど感情のイメージも共有されていくのです。つまりこれが「対話」なのです。対話は人間の物語を共有し創発を生む仕組み、と言えます。
そう考えると幼児期に「読み聞かせ」によって対話学習で感情のイメージ化を促進していくことは、理にかなっていると言えるでしょう。

よって物語による感情のイメージ化経験が少ない事は、共有できる資源が少ない事にもつながります。対話学習の経験が不足すると、共有する資源が少ないために、相手や社会の事が、イメージとして捉えにくくなるのです。これは発達心理学でも言われていますね。

ではイメージとは何か?イメージとは「自己内で再体験できる感覚の集まり」と言えます。その意味では時間と空間を再現したり超越しますね。時間と空間は物語を構成する重要な要素でもありますが感情をイメージするということは時間と空間を自由に構成すると同時に、時間と空間から解き放つ役割をします。解き放つから再体験できる。

4)対話と議論

対話は、物語を共有する仕組みとして人間の創発に影響を与えてきました。

もう一方の考え方もあります。

それは議論です。

議論は、事柄を客観的に捉え、細分化して、シンプルにしていくことです。人間の論理的な理解の基礎となっているものです。実はこの議論も人類の発達に大きな影響を与えてきました。例えば、科学であったり哲学であったり。

学習という視点から見ると、対話は対話的学習という物語ベースの学習なのですが、議論は知識的学習という論理ベースの学習です。一般的な学校教育や企業内教育においては、たいてい議論ベースの知識的学習が導入されています。

しかしながら、今現代の社会において問題とされていることは知識的学習に偏っていることが要因ではないかと感じます。問題を可視化し、データを集め、分析し、仮説を当てはめる・・・。

実はこの知識的学習というのは、幼児期に「読み聞かせ」のような対話的学習が積み重ねられ、大人になっても「対話」ができる、つまり物語が共有できる素地があるからこそ、機能するのです。

知識的学習つまり議論は、物語を共有する対話があるからこそバランスすると言えます。

なぜかというと、議論は「正しさ」を求める学習なので、正しさを定義する必要があるのですが、実はこの定義を擦り合わせる作業が難しいのです。

擦り合わせようにも、そもそもお互いの意見を相容れない人間がいると、「正しさ」が定義されないまま、個々の「正しさ」を求めていくので、いつまでたっても答えが出ない、または毒にも薬にもならぬ答えが積み重なることに結びつきます。

議論の世界しかないという先入観も、要因の一つでもあります。対話があるのに、議論しか見ない。言い換えると、知識や論理こそ知的生産であって、物語は娯楽である、と。

現代の彷徨う社会において、物語はとても重要な要素であると感じています。それは「バランスしていない」からです。

何のバランスか?

対話 と 議論
物語 と 論理
イメージ と 知識

近代では「何を知っているか?」が問われてきましたが、これからの時代は「何を語り、共有していくか?」が問われる時代になると感じています。

先に進まぬ議論が目の前で繰り広げられるなら、誰かが「対話をしよう」と声を掛ける。これこそが、これからの人類の知的生産性を向上させるポイントであると私は考えています。

我々ディープルート社においても、 雑多に多忙な日々を送るのではなく、時には一歩立ち止まって
知的生産性や全体最適の最大化についても考える時間をつくり業務の設計やマネージメントの在り方の再構築が必要と考えております。なかなか実践出来ていないのですが・・・。

2013年7月17日水曜日

④書き言葉 と 話し言葉 と その未来


先日、リテラシーについて研究されている方とお話する機会がありましたので、そこから思いつくことを書いてみます。

1:リテラシーと「書き言葉・話し言葉」

リテラシーとは読み、書きする能力のこと、とのこと。ITリテラシーやメディアリテラシーという言葉も生まれていますが、元来はリテラシーは読み書きする教育や能力のことです。

人間は、言葉を書くことによって蓄積型入出力のコミュニケーションを手に入れたと言われていて、数学や科学、哲学は、読み書きする力から生まれているそうです。

読み書きする能力を、手に入れると、論理的な思考や、知識のつなぎあわせが出来るそうで、現代の社会にとっては必要不可欠な能力と言えます。

人間のコミュニケーションという視点では、先程の蓄積型入出力のコミュニケーションという考え方と、発散型入出力のコミュニケーションがあります。

蓄積型が「書き言葉」(読み書き)であり、
発散型が「話し言葉」(聴き話し)です。

話し言葉は、まさに話すこと、なのでそこには感情や背景が入り交じった雑多で曖昧な情報と言えます。書き言葉は、論理的で明示的である事が特徴です。
(書き言葉を話すこと、話し言葉を書くこと、もあるので、厳密には線引きは出来ないのですが)

2:SNSの未来と言葉

TwitterFacebook等、情報発信や共有のツールが流行っています。

遡れば、情報というものが1箇所に集められ構造化されて、決まった流れで配信されていたのですが、現在は、インターネットという通信のインフラによって、情報空間と言われる「場」が形成されています。このインターネットというインフラ上で、情報は1箇所に集めるのではなく、構造化もされず、瞬間に、多方面に拡散されていきます。

そして今は、TwitterFacebookが、個人と個人を直接、双方向につなぐ「場」になっているといえます。

このような環境の変化が起きている中、書き言葉と話し言葉はどうなるのでしょうか?

インターネットは、画像や音声、動画等の扱うことが出来ますが、基本のコミュニケーションに使われるものは、書き言葉になります。書き言葉の重要性や、効率性に注目され、補完する取り組みも活発になると思います。

一方で、話し言葉、や話す場、が、重要であるという認識になっていくと考えられるのではないでしょうか?

3:対話の重要性

話し言葉は、今この瞬間に起きていることを扱います。自分の意識の中、感情、身体感覚など、混沌とした情報を言葉にしていきます。

相手の言ったことには言語だけでなく、混沌とした情報が含まれています。元気無さそうな声、嬉しそうな表情など、言語以外の情報で、書き言葉では伝わらない情報です。

人間が将来さらに高度な書き言葉ベースの情報空間を活用すればするほど、伝わらない情報が置いてけぼりになる可能性はあると思います。

OECDPISAでは、リテラシー教育が高度に徹底されている日本の学力(問題解決能力)のランキングがどんどん低下しています。一方で北欧のフィンランドのランキングは上位になっています。
*PISA
http://www.pisa.oecd.org/
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/data/pisa/index.htm

PISAの研究をされている白百合女子大の田島教授の話では、この違いは、対話の学習、いわゆる教育のデザインの違いであるそうです。つまり高度なリテラシー教育だけでは問題解決の力は発揮できないとも言えます。フィンランドや、PISAの調査対象ではないキューバでも、対話の学習が重要視され、教育システムに組み込まれているそうです。

対話というのは、常に問いかけ、違ったアイデアを繋ぎ、視点を変え、発想する、振る舞いであると言えます。蓄積された知識の中に正解がない場合、自ら作り出すしかありません。だからこそ問題解決能力には、蓄積型ではない発散型の対話が必要なのです。

相手の言葉にならない感情を受取るからこそ、自分の気持ちが動き、意識を刺激します。そして論理的ではない、何かの閃きが生まれるはずです。

対話は、これからの時代に求められる要素なのではないでしょうか?


4:バランスをとる

対話が重要であると言いましたが、そこはバランスも重要です。
蓄積型の書き言葉と発散型の話し言葉のバランスという意味です。

書き言葉で人類は文明を築いてきました。

ただ、書き言葉の文明は少し急ぎすぎてきたのではないでしょうか?
話し言葉は、ノロマでやっかいなもの、と思い込まされてきたのではないでしょうか?

ミクロネシアのヤップ島では、大昔からアウトリガーカヌーを建造する技術、水平線より先にある島々を認識する技術、星図や海図を貝殻を集めてつくる技術、星、波、風を読み未知の海域に対してイメージで海をわたる能力、それぞれが伝統として口伝で後継されます。つまり書き言葉ではないのです。(大阪の国立民族学博物館では、ミクロネシアの伝統航海術に関する展示がされています)

口伝の内容は現代の情報通信技術や工業技術をベースにした航海術に匹敵、時には凌駕する高度なものです。

書き言葉でないと高度な技術や理論にならないという先入観を打ち壊す事例ですね。

これからはインターネットインフラベースのコミュニケーションが増大していくと予想されますが、だからこそ話し言葉の重要性に目を向けていく必要はあると思います。

そしてそれは、人間そのものに好奇心を向けること、なのではないかと思います。


③[エッセイ]サラリーマンとビジネスマンの違い(雑感)


サラリーマンとビジネスマンの違い(雑感)/やまもといちろうBLOG

この記事を読んでいて、生の感覚を素直に書いていて、すごく納得するところありました。

サラリーマン、ビジネスマンというカテゴライズということではなく、ビジネスにおける重点、組織、多様性やリーダーシップの事を書いていると私は感じました。

気になった部分をエッセイとして、書いてみたいと思います。
部分部分を切り出すと、別の意図や解釈になる可能性はありますが、エッセイとして勝手に進めます。

1)「自分を知っているか?」

そもそも成功哲学や自分のロードマップというのは、自分を知らないから取り組むのであって知っていれば取り組む必要もないですね。

また記事にある、瞬発力も同じで、先を考えていないのではなく、自分を知っているからこそ「今ここ」に自分のリソースを集中していると言い換えることが出来ます。自分の得意・不得意分野が明確であり、例えば自分が何年後の計画を提示するよりも、優れた先見性と得意とする社員がいたならば、一緒に作ればいいだけの話ですね。その意味で背負い込まない気楽さも生まれる。

なので、一切を部下に任せて遊びまわっているように見えてしまう。
本当は難しい顔して議論するのではなく、リラックスしながら、いろんな社員、取引先、友人、メンターなどと会話する時間を持つ方が、実はアイデアも湧いてくる。
おそらく、こういった感じで「自分を知っている」人が、涼しい顔してビジネスのリーダーとして存在している気がします。

2)人間の得意・不得意

企業立ち上げ時期ではアイデア出しに向いている人、企業の安定経営の時期では組織作りに向いている人、が必要となると思います。

なのでベンチャー企業がスタートして、最初は良いけど数年で大企業病が蔓延していくのは、アイデア出しする社長がいつまでも組織作りを先送りにしている可能性がありますし、スタートで躓く企業は、組織作りに手をかけすぎているのかもしれません。

この観点から上記を見ると、サラリーマンの人たちに目標を押し付ける、というのは、少し辛辣な言い方にはなりますが、アイデア出しも組織作りも経験がない、と言えるのではないでしょうか。

本当はスタートアップ時はドラゴンクエストで言う「ガンガン行こうぜ」のリーダー。数年経って安定し始めると「いろいろやろうぜ」のリーダー、が向いていると思います。
モチベーションが摩耗するのは「じゅもんをせつやく(つかうな)」というリーダーなのかも知れません。「せつやく」はマジックパワーを回復系の呪文に振り分けることができるので、いわばドラクエで言うと街に寄らずに長距離の移動ができる、つまり経費削減で利益を出すことが出来ます。しかし、しっかりとした装備をしているなら「せつやく」しなくてもいいはずですし「せつやく」ばかりしていると、組織のメンタル面も疲弊してしまいます。(結局はコストが掛かる=ドラクエでは時間がかかる)

せめて、せつやくではなく「いのちをだいじに」というリーダーなら、組織という人間の集団における、身体と気持ちの疲れ具合を観ることが出来るので、メンバーの疲弊はしないでしょう。

3)コミュニケーションにコストをかける

コミュニケーションにコストを掛けているとのこと、まさに対話の必要性を物語っていますね。綿密なコミュニケーションにコストをかける事は、ある意味、スコラコンサルトさんのオフサイトミーティングにも似ていますね。

社内でのミーティングだけでなく、ダイアログの習慣化と言えるかも知れません。ダイアログというと大げさですが、お互いの納得や理解や共有という「場づくり」の時間を惜しまないということです。
この考え方は、3MやGoogleの「XX%ルール」にも匹敵する、チームビルディングでもあり知的生産性を向上させるポイントなのです。

4)戦士だけでパーティを組まない

前述のドラクエの例えで言うと、戦士だけでパーティを組まないということが大事。
まさに自然界の生物の生態における自律分散システムの研究で明らかになっていることですね。

菅原 研氏(東北学院大学教養学部情報科学科 准教授)の説では、均一化された能力&特性のアリの集団は、均一ではないアリの集団より、外的変化に弱いということです。一般的には、はたらくアリ、怠けるアリとして紹介されているものです。

働く怠けるという振る舞いが問題なのではなく、本質的な答えとしては、均一化された振る舞い(能力)では、偶然を生み出したり、違う動きができないので、外的要因の変化に追従しにくく、持続できない集団になるということです。なので自然界では絶妙なバランスで、得意分野が違う多様性のある集団が生まれるようになっているということです。

これは経営でも同じ話なのではないでしょうか。

5)適材適所を見極める対話

やまもとさんは一人ひとりと向き合い対話をされているようですが、これはそうですね。対話することは大事だと思います。

人の目利きというのは、ある意味、経験を積むしか無く、しかも、特に大切なのは目利きする自分が「自分とどれだけ対話できているか」が重要です。自問自答というやつですね。目利きするにあたっては対等に対話することも重要で、上下関係になった途端に目利きの感度が落ちてしまいます。(こうあるべき、とか自分が優位になっているということなど、心理面が影響する)

人の評価というのは、間接的には自分を評価することでもありますからね。
「一歩一歩進んでいこうと思っています。」という言葉にとても共感します。
相手も意識付けして変化していくだろうし、同時に自分の目利きも変化させていく、お互いの成長なんですね。

エッセイとして言語化してみて、私自身も明確になった部分がありました。
ありがとうございます。


②経営(ビジネス)で陥る最適化の罠とは? 自然界に見るジレンマ解消の智慧


サービス・イノベーションへの期待 -理学は実業の諸問題を解決できるか?(主催:内閣府経済社会総合研究所)というシンポジウムのお話の続きです。

前回のアリの話でも書きましたが、最適化を行う事が本当に「最適」なのか?という問いの流れの話です。

企業経営ともなれば、どの分野にどれだけのリソースを投入していくか、そしてその最適解を出して効率的なビジネスによって利益を生むと言う発想なのは当たり前ですね。

ただ、それは数理科学という観点で見て行くと、本当にそうなのか?という疑問も生まれます。

つまり将来予測という要素が混ざることで複雑になっていく。

これは「組み合わせ爆発」と呼ばれていて、最適化を阻む壁になっているそうです。要素が増えると計算量が莫大に増えて行くことを指します。となると最適な解も予測の数ごとに分岐していって解そのものが増えて行くことになります。(数理モデルの増加)

であれば解はある意味無限に近づくという矛盾も出てくるわけです。そこからどうやって一つの解を手に入れるのか・・。

例えば、自然界のモデルを紹介すると、東北地方に生息する鳥がいて、生まれてくるひな鳥は「黒」または「白」のどちらかの色で生まれてくるそうです。それはなぜかと言うと、雪が残る時期に生まれると「白」が保護色となり、雪の無い時期だと地面の色の「黒」が保護色となるそうです。(もちろん逆パターンとして生まれれば保護色にはならず、生命の危機が大きくなります)

もしこれをあえて一般的な企業で採用される思考パターンで両方の特性を併せ持つように効率化を考えると、グレーという選択になるのではないか、機能を合わせる事で付加価値を生むと言う考え方。

でもこれは自然界のモデルからすれば雪、地面どちらの保護色にもならないので種は絶滅してしまう。

何千年も種を残し生き残っている自然界のモデルは、白と黒を絶妙なバランスで生むと言う事にしかないのです。

企業で言えば、一定の割合で無駄が生まれている事で、生き残るチャンスが広がっていると言う事につながると言えます。
ごくわずかな無駄も排除すると、環境が変われば、ひとたまりもなく生命の危機が訪れる。

効率化、最適化とは、実はこのような「無駄」をどれぐらいの割合で含めるか、という考え方を取り入れることも大事で、その割合やパターンをモデル化することを数理科学でサポートしていくのが理想的であるという意見も出ていました。

継続していく事、複雑な要素の問題解決をする事、最適なモデルを構築する事は、いかに「有効な無駄」が存在できる仕組みにするかがポイントという事だと感じます。

このような科学的な分析や理論化によって、企業の戦略やオペレーションが解析されていく事の面白さも感じます。シンポジウムの話では特に数学の様々な概念を適用させると、企業活動におけるイノベーションを生む可能性が高いと言う事も知りました。

理学がビジネスの現場にもっと活用されるように、また実践として自らが取り入れられるようにディプルート社でも研究を続け商品化までもっていきたいと思います。